みつけた!良い言葉シリーズ開始します(*˘︶˘*).。.:*♡
世の中の事はすべて、心の持ちよう一つでどうにでもなる
これは実業家でもある渋沢栄一さんの言葉です
お札になる渋沢栄一さんね
渋沢栄一
渋沢栄一は天保11年(1840)深谷市の農家の家に生まれました。
幼い頃から家業である藍玉の製造・販売、養蚕を手伝い、父市郎右衛門から学問を教わり、
7歳になると、いとこの尾高惇忠のもとへ論語をはじめとする学問を習いに通いだします。
論語とそろばんね
いとこの敦忠さんに勉強を習ったんだねー
20代で倒幕思想を抱き、惇忠や惇忠の弟の長七郎、いとこの渋沢喜作らとともに、高崎城乗っ取り・横浜外国人商館焼き討ちを計画しましたが、長七郎は京都での見聞からこれに反対し計画は中止されます
その後、喜作とともに京都へ向かい、一橋(徳川)慶喜に仕官することになりました
うむ・・( ;∀;)徳川家に使えてたんだぁー
もうこの時点で桁違いの優秀さなのねー
一橋家で実力を発揮した栄一は27歳の時、慶喜の弟徳川昭武に随行し、パリ万国博覧会を見学し、欧州諸国の実情に触れることができました
この時代にパリへ行くとは!
衝撃的!!
きっと、侍日本は・・・??遅れていると思ったよねぇーー
💥
明治維新となって帰国すると日本で最初の合本(株式)組織「商法会所」を静岡に設立し、その後明治政府に仕官します。
栄一は富岡製糸場設置主任として製糸場設立にも関わりました。
大蔵省を辞めた後、一民間経済人として株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れるとともに「道徳経済合一説」を唱え、
第一国立銀行をはじめ、約500もの企業に関わりました。
また約600もの社会公共事業、福祉・教育機関の支援と民間外交にも熱心に取り組み、数々の功績を残しました。
500もの企業に関わっていたら、多少のことでは
折れない強メンタルじゃー無いと無理だわねぇー・・( ー`дー´)キリッ
まとめ
確かに生きていると色んな事がありますよね。。。
毎日ちょっといい言葉に触れているだけで、
昨日より今日が良く成っていけばいいなー(σ・∀・)σゲッツ!!
渋沢栄一さんお札にもなるだけあって偉大な人ですね
ただ、本を読んでいるとすごく人間味あふれる方だったようです(*˘︶˘*).。.:*♡
あぁーーー正社員だったら
ボーナスも、福利厚生も。。整っているのになぁーーヾ(。>﹏<。)ノ゙✧*。
いやいや。。
時間勤務だからそこ
家の掃除や家事がうまく回っているよねぇ(*˘︶˘*).。.:*♡
時間の余裕も大事だもんね
なんでも、物の見方考え方なのかもしれません。
今ある場所が何処であってもキラッと光る人で有りたいものです(*‘∀‘)